第3回電王戦が終わりました。
結果はプロ棋士側の1勝4敗で、この数字だけでは「トッププロとコンピュータの強さは同じくらい」という仮説を棄却することはできないのですが、内容まで見た人たちの一部では「コンピュータはプロ棋士より強い」という結論になっているようです。
コンピュータがトッププロよりも強くなることに関して、残念に思うことが2つあります。
残念なことの1つ目は、生身の人間に勝つ程度の将棋の強さならお金で買えるようになってしまったことです。ここで言う「買える」とは、お金を払って手に入れて、好きに使えるという意味です。囲碁棋士の趙治勲さんが『お悩み天国』で次のように書いていましたが、これは将棋にも当てはまることでした。
パソコンや携帯でやるゲームって、覚えたその瞬間に楽しめるわけですよね。モバゲーとか、グリーとかいう……僕はやったことないのですけど、球団を持てるほどに成長しちゃって。そのゲームではお金を払ってアイテムとか何とかを買えば、どんどん強くなれるわけでしょう? 碁の場合は何億円積もうともパワーをもらえない。ビルゲイツさんだって孫正義さんだって、こればっかりは無理。碁を楽しめるようになるには時聞がかかります。強くなるには世界の大天才だって数年は必要です。(p.29)
世の中にはお金では買えないものがあり、そのことを学ぶことが子どもにとって大切だと考える人は多いのではないでしょうか(南Q太『ひらけ駒!』はそういうことをうまく描いています)。実際、「お金を払えばマリオのジャンプ力が上がるというようなことはしない」というような言い方で、ゲーム会社である任天堂への信頼感が表現されることがあります。
これまで将棋は、そういうものの代表例でした。金にものを言わせてスパコンを使ってもプロには勝てないはずだったのです。しかし、パソコンがトッププロに勝ったことで、事情は大きく変わりました。金をかけて高性能のコンピュータ(例:大紅蓮丸)やクラスタを用意すれば、無制限にではありませんが、将棋の強さが手に入るのです。賞金4,200万円の竜王戦がコンピュータに解放されたら、3,000万円でクラスタの計算資源を買って優勝を目指すということもできるかもしれません。
残念なことの2つ目は、将棋の強いプレーヤーが複製できるようになってしまったことです。世界コンピュータ将棋選手権の2013年優勝ソフトBonanzaはすでにパッケージになっていますし、初代電王のPonanzaもパッケージ版PonaXとして発売されるそうです(Amazon)。世界コンピュータ将棋選手権のBonanzaはクラスタ構成だったので、パッケージを買ってきても選手権のものと同じ強さを手に入れたことにはなりませんでしたが、電王戦のPonanzaは市販されている電王戦統一採用パソコン上で動いていたので、同じ性能のパソコンがあればトッププロに勝ったプレーヤーが、より高性能のパソコンがあればさらに強いプレーヤーが家にいることになります。将棋のプロのすごさは何も変わらないのですが、希少なものをありがたがる人にとっては、将棋のプロのありがたみはなくなってしまうかもしれません。
もちろん、スパコンで動くプログラムにパソコンで動くプログラムが勝つということはあり得ますし、そのプログラムが非公開で、パッケージ販売などもされなければ、新たな伝説が始まるかもしれません。しかし、本質が変わってしまったことには変わりありません。
長い間将棋は、人間の頭で考えるという方法だけで探求されてきたので、「最適」ではない「準最適」の戦略を育ててしまっている危険があります。コンピュータを使うというこれまでとはまったく違う探求法が実用になることで、この危険を回避できるかもしれません。実際、「プロ棋士では思いつかないような手」を、プロ棋士がとがめられないという場面は何度かあったようです。(関連:アインシュテルング効果)
たとえこれまでの探求が間違っていなかったとしても、コンピュータ将棋の進歩によって、特定の戦型の序盤の数手について記述するだけでも何百ページもの文書が必要な現状(例:羽生善治『変わりゆく現代将棋』)が改善されるくらいのことは期待してもいいでしょう。
ですから、将棋というゲームを知的好奇心の対象とする立場では、コンピュータが人間より強くなることには喜ばしいことです。
私もそういう立場のつもりだったのですが、こうやって改めて考えてみると、そう単純ではないと思うようになりました。多くの人は、純粋な知的好奇心の対象として将棋を楽しんでいるわけではなく、お金では買えない強さの希少性に惹かれてきたのではないでしょうか。そうだとすれば、(生身の人間と比較しての相対的な)強さが希少ではなくなったとき、将棋には何の「意味」があるのでしょう。
最善を尽くせるなら先手と後手のどちらの勝ちなのかといった、純粋に知的好奇心の対象となるような問いは残っていて、近いうちにその答えが得られるということもないでしょう。しかし、そういう問いがどれだけの人を惹きつけられるのか、私にはよくわかりません。知的好奇心という人類のリソースの奪い合いでは、数学の真理や生命の神秘のような、強力なライバルはたくさんあります。
というわけで、強さが金で買えて強いプレーヤーが複製できる時代に将棋を指すことの「意味」を、プロ棋士の方々には示してもらいたいものです。今のところ「意味」を考えられるのは人間だけのはずです。
人間に勝つような将棋プログラムを書く能力のほうは、依然お金では買えませんし、複製ももちろんできません。だからといって、子どもには将棋よりもプログラミングを教えるべきかというと、そこはちょっと慎重になった方がいいでしょう。
追記:第27回世界コンピュータ将棋選手権(2017)では、Dual Xeonのelmoが、それまで最強を誇っていたうえに、ふつうに一ヶ月借りたら1500万円と言われる計算資源を利用するPonanza Chainerを破って優勝しました(参考)。「金で買える」という表現には、少し修正が必要かもしれません。