私とは何か 「個人」から「分人」へ

4062881721平野啓一郎さんが「分人」という概念を提唱していて、それを知ると人生のモヤモヤがすっきり整理できたりするという話を聞いたから、平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(講談社, 2012)を読んでみた。(参考文献リストなし。索引なし。)

「個人(individual)」という言葉の語源は、「分けられない」という意味だと冒頭で書いた。本書では、以上のような問題を考えるために、「分人(dividual)」という新しい単位を導入する。(p.7)

4344408462かつて加藤典洋さんが、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』について次のように書いていたのが思い出される。

これまで文学は、少なくとも近代以降、インディビデュアル(in・dividual)、これ以上は分割できない単位としての個人を基礎として、その上にモラルの問題を形象化してきた。(中略)しかしここで村上は、(中略)、個人がなくなる先の物語を仮構することを通じ、彼は、新しい未踏の領域を文学にもち込もうと考えているのである。(『村上春樹 イエローページ2』(幻冬舎, 2006) p.184)

(ちなみに、『村上春樹 イエローページ2』には参考文献リストと索引は付いていない。)

文学は詳しくないが、「分けられない」ことを意味するindividualの、否定の接頭辞「in」をトルという風潮があったのだろうか。

『私とは何か』に戻る。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。(p.7)

一人の人間の中には相当な数の分人がいると思われるが、それらはどう切り替えられているのだろう。意識的に切り替えるとなると、そのための分人が出てきてわけがわからなくなるから、無意識がうまくやってくれるということでいいのだろうか。

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。(p.7)

その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。(p.8)

ネットワークにおける構成比率とはなんだろう。各分人に何らかの数が割り振られているのか。ページランクのようなものだろうか。分人は状況毎に一人なのだろうから、「意志決定における影響度(持ち票数)」のようなものではないはず。登場頻度のようなものなのだろうか。ちょっと違う気がする。よくわからない。

学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?(p.94)

気が楽になる人がいるならけっこうなことなのだが、この「区別できる」が案外難しいように思う。心がけ次第だろうか。何かコツのようなものがあるのだろうか。

あなたが語りかけることが出来るのは、相手の「あなた向けの分人」だけである。(p.106)

個性は分人の構成比率ということなのに、「あなた向けの分人」にしか語りかけられないのなら、相手の個性を知るなんてほとんど不可能ということにならないか。私が感じる他人の「個性」は、ここで言われている「個性」とはまったく違うものなのだろうか。

消してしまいたい、生きるのを止めたいのは、複数ある分人の中の不幸な分人だ(p.109)

「消してしまいたい」と思うのは誰なのか。分人なのか。分人について考える分人(メタ分人)が生きるのを止めたいと思ったりすることはないのだろうか。かなり悲惨なことになりそうだが。人生も、論理も。そもそも、こうやって分人について考えている私は、特別な分人なのだろうか。

一人を殺すことは、その人の周辺、さらにその周辺へと無限につながる分人同士のリンクを破壊することになる。(p.155)

分人を損なうことと、(分けられない)個人を傷つけることとでは、罪深さはあまり変わらない気がする(どちらかと言えば、後者が罪深いような気も)。「分人」が、「なぜ人を殺してはならないのか」という問へのよい答えを与えるということはないだろう。

十年前のあなたと、今のあなたが変化しているとすれば、それは、つきあう相手が変わり、分人の構成比率が変わっているからである。(p.161)

「分人の構成比率」は個性のことなのだから、「あなたが変化しているのは、あなたの個性が変化したからである」というあたりまえのことを言っているだけなのでは? 分人自体は変わらずにそのネットワークのトポロジーだけが変わる、あるいはネットワークのトポロジーは変わらずに分人だけが変わるというなら面白いが、そういうことはなさそうだし。

一人の人間の中の分人同士は、どこかで浸透し合うものなのだろうか? それとも、完全に切り離されたものなのだろうか。(p.165)

浸透し合うという考え方は、「分人」のもっとも基本的な部分を損なっている気がする。

なんだか「気がする」ばかりが続いた気がする。

相手や状況によって振る舞い方が変わったように見えても、その人にとっての「原則(指導原理)」は共通(≠不変)であることが、心地よく生きていくためには必要だと私は思う。「個性」とか「~らしさ」という言葉もそういうものを指して使われるのではないだろうか。私が誰かを好きなのは、その人の特定の分人が好きだからなのではなく、その人の「分人」が(いたとして、それらが)共通して持っていると想像される「原則」を私が好きだからだ。

ソーシャルソフトウェアは「分人」をサポートするか?