進学校として有名な灘高にはかつて、中学3年間をかけてたった一冊の薄い岩波文庫、中勘助『銀の匙』を読む国語の先生がいたという。
岩波文庫の『銀の匙』は、本文だけでなくその解説もけっこうすごいことになっている。解説を書いているのは和辻哲郎だし、そこで紹介されるのは、漱石がいかにこの作品を賞賛したかということなのだ。
漱石はこの作品が子供の世界の描写として未曾有のものであること、またその描写がきれいで細かいこと、文章に非常な彫琢があるにかかわらず不思議なほど事実を傷つけていないこと、文章の響きがよいこと、などを指摘して賞賛した。(p.224)
そうは言ってもたった一冊の文庫本で3年も授業ができるか、と思う人もいるかもしれないが、関連する話題を丁寧に扱えば、3年くらいはすぐに経つものだろう。「文庫本1冊に3年」を私が大学で試すとしたら、ウィーナー『サイバネティックス』(岩波文庫, 2011)が有力候補だが、それについてはまた別の機会に書く。
3年間『銀の匙』の先生の名は橋本武。彼の授業の様子、教え子たちのその後を追ったノンフィクション、伊藤氏貴「奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち」(小学館, 2010)を読んだ。
「教え子に聞く」というコラムの中で、海渡雄一さんが思い出を語っている。
『銀の匙』の中に、お寿司屋のシーンが出てくるんだけど、そこで橋本先生が『魚偏の漢字は全部で678あります。集めてみましょう』という課題を与えたんですね。(中略)『魚偏』、500以上集めたかな。でも全部は集められなかったですね。(p.188)
このエピソードに関連して、以下のような話をするだけで、あっという間に数時間は経つはずだ。こういうことを「くだらない脱線」で終わらせないための技を(私は)持っているだろうか。
- 文字コード・Unicode(2時間)
- 正規表現(1時間)
- シェルスクリプト(1時間)
- ウェブブラウザ上で表示される文字の振る舞い(0.5時間)
- 四角号碼の練習(0.5時間)
Unihanデータベースで魚部の漢字を調べると、本エントリ執筆時点で1191文字あることがわかる。
確認のために、Unihan.zipのUnihan_RadicalStrokeCounts.txtを使って、次のようなスクリプトを実行してみる。
grep "\\s195'\{0,1\}\." Unihan_RadicalStrokeCounts.txt | cut -f 1 | sed -e 's/U+//g' | uniq
結果は1198文字で、さっきより7文字多い(下に赤で示す)。その内訳は、Unicode 6.0で追加された6文字(U+2B80DからU+2B812)と、康煕字典とUnicodeで部首が違うU+7A23だが、Unicode 6.0の6文字についてはいずれ更新されるだろう。下の画像にすべて挙げるが、高解像で見たい場合はPDFやHTML文書(Webフォント使用)を参照してほしい。
最後の文字(U+2FA0B)はCJK互換漢字補助で、U+9C40と同字(のはず)だから除外してもいいだろう。というわけで、魚部の漢字は1197字ということになる。この時点では橋本先生の言う678文字よりはるかに多い。その原因は、橋本先生が言ったのが「魚偏の漢字」だったのに対して、ここで数えたのは「魚部の漢字」だからということだろう。困ったことに、Unihanデータベースには、偏は直接は登録されていないため、「魚偏の漢字」は簡単には数えられない。約1200個の中から、魚偏のものだけ目視で選ぶのも大変だ。
そこで試しに、四角号碼で検索してみる。魚偏の漢字の四角号碼は正規表現を使って「2.3.」と書けるから、次のようなスクリプトで探せるはずだ。
grep "kFourCornerCode\\s2.3." Unihan_DictionaryLikeData.txt | cut -f 1
結果は期待はずれ。Unihanデータベースのすべての文字の四角号碼が登録されているわけではないし、「2.3.」にマッチする文字は魚偏のものだけではないため、この方法ではうまくいかない。
乏冬劁勲勳勺崽嶌嶺巛忐忝忽怠怤急怨怱怹恁息恷悉悠您惄惣惩惫愁愆態慫憇憊憩懇懲懸戀歍毖炰点烋烏焦然煞熈熊熏穌虢鄎鄔鄩鄬駌魚魛魟魠魡魤魦魧魨魬魰魱魴魵魶魷魺魻魼魽魾鮀鮂鮃鮅鮆鮇鮈鮎鮐鮑鮒鮓鮕鮖鮗鮚鮛鮞鮟鮠鮡鮢鮥鮦鮨鮪鮫鮭鮮鮯鮴鮵鮶鮸鮹鮽鮿鯀鯁鯃鯄鯆鯇鯉鯏鯑鯒鯓鯔鯕鯖鯙鯚鯛鯜鯞鯠鯡鯢鯣鯤鯥鯦鯧鯨鯪鯫鯬鯰鯱鯲鯵鯷鯸鯽鰄鰅鰆鰇鰈鰉鰊鰋鰌鰍鰎鰐鰒鰓鰔鰕鰗鰛鰜鰝鰡鰣鰤鰥鰨鰩鰫鰬鰭鰮鰯鰰鰱鰳鰶鰷鰹鰺鰻鰼鰽鰾鰿鱁鱄鱆鱇鱈鱊鱋鱌鱍鱎鱐鱒鱔鱕鱖鱗鱘鱙鱚鱞鱠鱢鱣鱦鱧鱨鱮鱱鱳鱴鱵鱶鱷鱸鱹鱺鳥鳦鴃鴕鴛鵀鵆鵌鵔鵞鵹鵻鵿鶀鶖鶭鶳鷈鷌鷥鷦鷻鸃鸄鸑鸔鸞鹪黛黧
(いろいろ省略)
いろいろ試してみると、Unihanデータベースには魚偏の漢字は少なくとも903文字はあることがわかる。下の画像にすべて挙げるが、高解像で見たい場合はPDFやHTML文書(Webフォント使用)を参照してほしい。「魚」は日本の字体だけに限定。フォントが変われば字形も変わるかもしれないが、ここでは追求しない。
「少なくとも903文字」と書いたのは、魚部の検索結果から文字を絞り込んでいるから。もしかしたら、魚部とはみなされていなくても、魚偏の漢字はあるかもしれない。たとえばUnihanデータベースでは、禾部で検索した結果に「稣」が含まれている。この文字は魚部で検索しても出てくるから問題ないが、もっと悪い例はあるかもしれない。漢字はたくさんあってよくわからない。
橋本先生はどういう根拠で「魚偏の漢字は全部で678あります」などと言っただろう。諸橋轍次のアシスタントをしたことがあるらしいから、諸橋大漢和にあたればわかるかもしれないが、とりあえずはこのくらいにしておこう。
追記:恩師の条件—魚偏の漢字
お約束ですが、文字コードや字体、字形について知りたい人は、拙著『Webアプリケーション構築入門』を参照してください。情報系の大学の授業なら、この本1冊でも1年くらいはもつでしょう。