日本語の科学が世界を変える


4480016139松尾 義之『日本語の科学が世界を変える』(筑摩書房, 2015)

言語の違いが科学的発想の違いにつながる可能性と、日本語で科学することの利点について議論されている。サピア=ウォーフの仮説を想起させる前者についてはよくわからないが、後者はありそうなことだ。思考が言語に基づくとすれば、その限界には母国語でしか到達できないだろうからだ。アウトプットのための英語力を強化しようという政策は悪くないが、日本語で科学することを放棄してしまうと、つまらないことになるかもしれない。

知ろうとすること。


410118318X早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』(新潮社, 2014)

糸井氏は言う、「大切な判断をしなければいけないときは、必ず科学的に正しい側に立ちたい(p.11)」と。しかし、現時点では科学的とは言えない領域での立ち位置にも、著者達は気を配っている。

  • 糸井 ベビースキャンが福島の病院で稼働しはじめたときのニュースで印象的だったのは、発表の記者会見のと気に、早野さんが「これは科学的には必要の無い機械です」っておっしゃったことです。(p.121)
  • 糸井 ぼくが測定に立ち会う係だったら、「カリウムのことは先に言いましょうよ」って提案すると思います。(中略)測定後の安心感も、より確実になるような。(p.125)
  • 早野 科学者は「こういう前提において、この範囲では正しい」というふうに説明しようとする。でも、これは一般の人にはわかってもらえないのですね。(p.171)

こういう話は、うんざりさせられるものであり、我が身を省みさせるものであり、改善しなければならないと思わされるものである。

一般の人についての科学、その科学における正しさ、その正しさを踏まえて行動することについての科学、その科学において正しい側に立ちたいものだ。

ファインマンさんの流儀


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「自分で一から創れるものでないと、僕はそいつが理解できないんだ」

これは、ファインマンが最後に黒板に書き残した言葉だそうです。たいていの人は巨人の肩に乗るだけで精一杯なことを考えれば、こういう態度でもノーベル賞を受賞するだけの研究成果をあげ、ベストセラーの教科書とエッセイを書いた彼がいかに優れていたかがわかるというものです。しかし、こういう態度でなければもっと多くのことを成し遂げられたのではないか、という見方もあるようです。ローレンス・M・クラウス『ファインマンさんの流儀』(早川書房, 2012)(参考文献リストあり・索引なし)に次のような話が載っていました。

科学が健全であるためには、すべての科学者が同じことに飛びつかないことが大切で、これこそファインマンが、ほとんど強迫観念と言えるほどまでに注意を集中した点であった。彼は才能に恵まれ、何でもできたので、必要があれば、ほとんどすべての歯車を一から発明しなおすことができたし、その過程で改良までしてしまうことも多かった。とはいっても、歯車を発明しなおすには時間がかかり、その苦労が報われることはめったにないことも確かである。

(中略)

(シドニー・コールマン曰く)実際、とても独創的な人で、偏屈でもないのに、肝心なときに、正しくあることよりも独創的であることにこだわったがために、すばらしい物理の成果を上げられたはずなのに実際にはそこまで行けなかった人間を私は何人も知っています。ディックは多くを自分のものにすることができたはずでした。(p.293)

参考になるような、ならないような話です。

そういえば、『ファインマン物理学』の原書(全3冊)は、http://www.feynmanlectures.info/で無料で読めるようになっています。学生時代に愛読した日本語版(全5冊)は岩波書店から出版されていますが、全部揃えると2万円を超えます。英語は苦手だけど物理は得意という青少年のために、どこかの大学が買い取って無料で公開してはどうでしょう(新たに訳すのもなんですし)。それまでは、機械翻訳を使いながらでも(そしてそれを改善しながら)原書を読むのがいいのでしょう(あるいはもっといい教科書があるのでしょうか)。

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4150504326文庫になりました。

パーフェクト・セオリー


4140816376ペドロ・G・フェレイラ『パーフェクト・セオリー 一般相対性理論に挑む天才たちの100年』(NHK出版, 2014)(参考文献リストあり・索引なし)

アインシュタインの一般相対論は、宇宙の姿を描いたり、ブラックホールを予言したりと、輝かしい成果を上げてきた。しかし、量子論との統合はできていないし、理論を観測に合わせるための暗黒物質や宇宙定数も、よくわからない事態が続いている。そういう理論の100年を、一般向けに丁寧に解説している(一部神話の領域)。かつて『ホーキング、宇宙を語る』は、出てくる数式を「E=mc2」だけにしてベストセラーになったが、本書に出てくる数式は「2+2=4」のみ(p.113)。

一般相対性理論の黄金時代(60年代から70年代)の終わりに出版された対照的な2冊と紹介されたタイトルがなつかしい(p.299)。

著者自身も登場している本書の副題として、「一般相対性理論に挑む天才たちの100年」はどうかと思う。

科学を語るとはどういうことか


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東大で物理学を研究する須藤靖さんと、京大で科学哲学を研究する伊勢田哲治さんの対談をまとめた『科学を語るとはどういうことか』は、知的トレーニングを積み重ねたはずの者同士でも、分野が違えばほとんどわかりあえないことを示す、貴重な記録である。

須藤 すでに何度も同じことを述べてきたのですが、再度明確に言うならば「明日物理法則が変わる可能性は決して否定できるものではないが、経験的にも美的感覚から言ってもその可能性は著しく低い。したがって、明日もまた今までと同じ物理法則が成立していると考えることが最も合理的である」です。

伊勢田 ヒュームが言っているのは、経験的に確率が低い、というのは帰納の正当化に帰納を使う議論になっていて単なる循環論法だし、美的感覚など何の根拠にもならないということなんですけどね。だから、結論も、「したがって合理的である」というよりも、「にもかかわらず合理的である」なんですけどね。(p.253)

全体を通して、須藤さんの、読んでいるこちらがどきっとするような、かなり感情的な科学哲学批判に、伊勢田さんがとても冷静に対応しているのが印象的だった。

伊勢田 須藤さんが一方で科学の一番基礎の部分である帰納を認めるかどうかというのが完全に趣味の問題だということも認めつつ、他方でそれを「合理的」「健全」という言い方をされていて、中立的な観点から見てもその選択が支持できるものだ、と思っていらっしゃるようなニュアンスを感じるんですよね。そのずれにちょっと「あれっ」と思わざるを得ない。でもこのずれは須藤さんだけのものではなく、科学哲学が登場する前から哲学者がこの三〇〇年間格闘してきたまさにその問題でもあるんですよね。(p.262)

「合理的」を辞書で引くと、「①論理にかなっているさま。②目的に合っていて無駄のないさま。」(大辞林)という語義が載っている。伊勢田さんの「合理的」は①だが、須藤さんの「合理的」は②なのかもしれない。

「科学哲学は鳥類学者が鳥の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」というファインマンの言葉が繰り返されるが、「科学とはどういう試みなのか」ということを、できるかぎり厳密に深く考えようとする人たちがいるのは、鳥類学者が鳥の役に立つ程度より、はるかに人類の役に立つと思う。(少なくとも私は大いに楽しませてもらった。)

科学哲学についてのバランスのとれた初学者向けの解説書として、以下の3冊が紹介されている。

この本には索引は付いていない。