昭和を騒がせた漢字たち


昭和を騒がせた漢字たち―当用漢字の事件簿 (歴史文化ライブラリー 241)副題:当用漢字の事件簿 (歴史文化ライブラリー 241) (単行本)
円満字 二郎 (著)
吉川弘文館 (2007/09)

なぜ漢字にこだわる人が多いのか。本書から読み取れる理由は以下のとおり

  1. 社会のあり方との関係
    1. 難しい漢字を使いすぎると、教育を受けていない人とコミュニケーションができなくなる。体制は戦前、この問題を悪用して、わざと「八紘一宇」のようなわかりにくいスローガンを使っていた
    2. 漢字を制限することは自由への抑圧になる
  2. 個人の感情の問題
    1. ある形とともにそのことばを経験したことによって、形とことばとが切り離し不可能なほどに結び付き、その言葉を他の形で表現することに違和感を覚えるようになる(p.48)
    2. 多くの人に「基準を求める心」がある

題名通り、多くのお騒がせな事例が紹介されているが、それらの多くは上にまとめた観点から解釈できるようになっている。たとえば、朝日新聞が独自の略字体(朝日文字)を使っていたのは1.1を、題字が変なのは1.2を意識してのことなのかなあ、とか

参考:新聞の題字にみる「教育的配慮」

同著者の『人名用漢字の戦後史』もおすすめ

失われた時を求めて


失われた時を求めて フランスコミック版 第1巻 コンブレー

小説 恋愛をめぐる24の省察10年ほど前、今よりさらにものを知らなかった(当然プルーストも読んでいない)私は、どういうわけか、翻訳されたばかりの小説『小説 恋愛をめぐる24の省察』を手に取り、非常に感銘を受けたのだ。プルーストをパクって言えば、

最初に私のなかに現れる最も密かなものは、たえず動いて他のすべてを操るハンドルのようなものだ。それは今読んでいる本の哲学的な豊かさと美しさへの信頼であり、どんな本であろうと、その哲学性と美を自分のものにしたいという欲望だった。(中略)幸福と不幸、その最も激烈なものは人生ではゆっくり生まれるので、それに気づくことができず、読書がなければ永遠に知りえなかっただろう。(コミック p.37)

プルーストによる人生改善法人生における読書の価値にはまだあまり確信を持っていなかったが、それでも著者のアラン・ド ボトンは読書がなければ永遠に知りえないことを教えてくれるかもしれない作家として私の記憶に残ることになり、当然の成り行きで、次に翻訳された『プルーストによる人生改善法』も出版されてすぐに読んだ。これが私とプルーストの出会いだ。なんと遅れてきた出会いか

そもそもなぜ私は『小説 恋愛をめぐる24の省察』を手に取ったのか、これがどうしても思い出せない。この思い出せない感じをプルーストをパクって表現すれば、

私たちの過去を思い出そうとするのは無駄な努力だ。知性の努力はすべて空しい。過去は知性のとどく領域の外にあって、思いもかけないものに隠れている。死ぬまでにこのものと出会えるか出会えないかは、偶然に任されている。(コミック p.17)

私は私のマドレーヌに出会えるのだろうか

さて、その圧倒的な表現力を見せ付けられて自分の表現力のなさにがっかりする危険はあるのだが、それこそ読書がなければ永遠に知りえないだろうことへの好奇心を抑えることは不可能で、読まずに済ますわけにはいかないプルースト。だが、あのあまりの文量を考えると、ちくま文庫の第1巻だけがたくさん売れるのも、まあ仕方がないことかもしれない(私も、この人生でプルーストを原書で読むのはたぶん無理)

まことに残念ですが...―不朽の名作への「不採用通知」160選プルーストがとっつきにくいのは、一般読者に限ったことではない。『まことに残念ですが』には、次のような有名な不採用通知が掲載されている

ねえ、きみ、わしは首から上が死んじまってるのかもしれんが、いくなない知恵をしぼってみても、ある男が眠りにつく前にいかにして寝返りを打ったかを描くのに、なぜ三〇ページも必要なのか、さっぱりわからんよ。(p.146)

『プルーストによる人生改善法』でも「プルースト読んだ女とは結婚してもいいぜ」でもなんでもいい。「なぜプルーストを読まなきゃいけないのかを私に教えてほしい」という人に最適の一冊、『失われた時を求めて フランスコミック版 第1巻 コンブレー』。帯に「古典の冒涜か? 名作の新解釈か? 新しい読書体験への招待か?」とあるが、もちろん「招待」ですよ。これを読んだら本物にあたらずにはいられなくなるはず

それでもまだ踏み切れない向きには、新訳の訳者による『抄訳版』解説「プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界」

抄訳版 失われた時を求めて〈1〉抄訳版 失われた時を求めて〈2〉抄訳版 失われた時を求めて〈3〉

幼年期の終わり


幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)解説の巽孝之さんによれば、三島由紀夫をして「私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」を言わしめる可能性を秘めたSFだが、ざっと見たところ「東大教師が新入生にすすめる100冊(2007年版)」には1冊しか入っていない。

その1冊、クラーク『幼年期の終わり』

私は「種としての人類を語れるのはSFだけ」だと思っていて、そういう意味では、「先生、そんな古典じゃなくてレムとかイーガンとかのすごいのを紹介してくださいよ!」とお願いしたいところなのだけれど、1953年の出版ということを考えると、「古典としては超一流」と言わざるを得ない。

光文社古典新訳文庫に入るのもうなずける。新訳。

幼年期の終り

書き換えられたのは導入部分の第1章のみ。コンタクトの時、人類が何をしていたかを描く章で描かれるのは、旧版では米ソの宇宙開発競争、新版では火星探査計画である。直後にやってくるオーバーロードの文明と比べればたいして違いはないわけで、わざわざ書き直す必要はなかったんじゃないかと思う。火星探査が実現したら、また書き換えなきゃならんのか?

だから、まだ読んだことのない人は、新旧どちらを選んでもいいと思う。

コンタクト直後を描く第1部「地球とオーヴァーロードたち」、人類がオーヴァーロードに統治される第2部「黄金期」は、ある種のユートピア論として読むこともできるだろう。

だか、この小説の最大の見せ場は、人類が次の段階(オーヴァーマインド)に向かう第3部「最後の世代」だ。ここはすごい。50年以上前にこれを書いたか。

ジャンは宇宙の無限の大きさをかいま見た。そこには、人類の居場所はなかった。彼を星々へと誘った夢がどれほどむなしいものだったか、いまならわかる。星々への道は、途中で二つに分かれているからだ。そしてそのいずれをたどっても、終着点で待っているものは、人間の希望や恐怖など決して考慮しようとしない。(p.396)

(その二つの道が具体的にどういうものなのかは小説を読んでもらうことにして)

われらが人類を顧みる。われわれには、この二つの道の分岐点は現れるのだろうか。そこに何らかの選択肢はあるのだろうか。種としての人類に、思いを馳せずにはいられない。

知性ある物は、運命の必然に腹を立てたりはしない(p.399)

追記:大学生が選ぶ本の大賞にアーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」(読売

「大学生に読んでほしい本」を、大学の文芸サークルに所属する学生らが選ぶ初めての試み「大学読書人大賞」の最終選考会が4日、東京・上野で開かれ、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(光文社、池田真紀子訳)が大賞に選ばれた。SFの古典的名作の新訳文庫という、既存の文学賞では選ばれないであろう作品が大賞になったことこそ、この賞のユニークさの証明である。

コンビニおでんを食べる理由


コンビニおでんがかなり不衛生なことは誰でも知っています。am/pmの創業者、秋沢志篤さんもこんなことを言っています

おでんって、コンビニにとっては、売れ筋商品なんですよ。ところが、実験店で実際のオペレーションに取り組んだ時、その結果には驚いて、ひっくり返ったね。掃除しようとして、底を見たら、髪の毛とか、臭いと光に集まる虫とかが、溜まっていたんです。どんなに売れても、お客さんがほしがっても、これはお客さんに食べさせられない、と思いましたよ(ウチでは「おでん」は売りません

人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り

明らかに不衛生なのに売れる理由は私にはわかりませんが、わからない自分を慰める理論はあります。駒場の学生だったときに習いました。ハンディキャップ理論というやつです。ダイアモンド『人間はどこまでチンパンジーか?』で紹介されています

体に悪いことが明らかにも拘わらずたばこを吸う人は、知的にも肉体的にも進化的にちょっと不利かと思われます。しかし実は、「そういう危険なことをしても大丈夫なほど強い」ということをアピールすることによって異性を惹きつけられる、つまり進化的に有利になるというのです

コンビニおでんも同じことです。不衛生にも拘わらず食べる人は、一見愚かな気がします。しかし実は、「そういう危険なことをしても大丈夫なほど強い」ということをアピールしているのです

それだけではありません。コンビニおでんで一生懸命セックスアピールしている人を見ると、なんとなく心温まる感じがします。がんばってるなあって。食べた本人だけでなく、観ている人も温かい気持ちにさせてしまう、そんな偉大な食べ物なのです。僭越ですが、赤福なんかを入れるともっと売れるのではないでしょうか

私は体が弱いのでコンビニおでんは食べませんが、あまりにモテなくなったら・・・

n日後を返す関数を返す関数、どう書く?(Mathematica)


n日後を返す関数を返す関数(どう書く?org)

整数nを渡すと「日時のデータを受け取って、n日後の日時を返す関数」を返す関数を作ってください。

これはそんなに簡単な問題じゃない。すでにアップされているものの中に正解はなさそう。満足できるものを作るにはかなりの手間がかかるはず。ここでも、そこまではしない

面倒だから、日本限定、nは0以上、西暦限定、暦はユリウス暦とグレゴリオ暦のみ、妥当な日付が入力されることにしよう

Mathematicaでは、1752年9月14日にユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替わったことになっている

<<Miscellaneous`Calendar` (Version 6では「<<Calendar`」)

DaysPlus[{1752, 9, 2}, 1] (1752年9月2日の翌日は)

{1752, 9, 14}

でも、日本の場合、切り替わったのは明治6(西暦1873)年1月1日だから、このまま使うわけにはいかない(厳密に言えば、旧暦とグレゴリオ暦の差を詰めたのが明治6年、グレゴリオ暦の置閏法を採用したのが明治31年)

  • 入力が1873年1月1日より前ならユリウス暦で計算
    • 結果が1892年12月2日より後ならグレゴリオ暦に変換
    • そうでなければそのまま
  • そうでなければグレゴリオ暦で計算
nDaysLater[n_] := Function[{d},
    Module[{tmp},
      If[{10000, 100, 1}. d < 18730101,
        tmp = DaysPlus[d, n, Calendar -> Julian];
        If[18721202 < {10000, 100, 1}. tmp,
          DaysPlus[{1873, 1, 1}, DaysBetween[{1872, 12, 3}, tmp, Calendar -> Julian]],
          tmp],
        DaysPlus[d, n]]]]
nDaysLater[1]@{1752, 9, 2}

{1752, 9, 3} (異常なし)
nDaysLater[1]@{1872, 12, 2}

{1873, 1, 1} (暦が切り替わった)
nDaysLater[5]@{2007, 7, 20}

{2007, 7, 25} (異常なし)

Javaの暦に関しては、拙著『Webアプリケーション構築入門 実践!Webページ制作からマッシュアップまで 』(森北出版, 2011)で解説しています。