黄金比は「絶妙なバランス」のことではありません

すでに定義が確定していることばを別の意味で使うのはできれば避けたいものです。

「ロストジェネレーション」は第1次世界大戦に直接の影響を受けた作家たちを指すことばです。ヘミングウェイ『日はまた昇る』で引用されているスタインのことばで有名です。

あなたがたはみなうしなわれた世代の人たちです。(大久保康雄訳)

最近このことばは「日本の就職氷河期世代」を指すのに使われるそうです。そういえば「氷河期」もまったく異なる概念を指すのに使われることばですね。

「ビッグバン」はこの宇宙の始まりのあたりの物理現象を指すことばですが、1986年のイギリスの証券制度改革や、1996年からの日本の金融制度改革を指すのにも使われます(後者は「金融ビッグバン」と呼ばれることが多いようです)。

「三位一体」はキリスト教の中心的教義の一つを指すことばですが、「三つのものが本質的には一つであること」という意味でも使われます。「なんだかよくわからないもの」という意味でも使われる気がしますが、辞書にはそんなことは書いてありません。

「エントロピー」ということばは、物理学では乱雑さの度合いを、情報学では情報量の期待値を表します。この2つは同じものだということが後にわかったわけですが、情報学でこのことばを用いるようにシャノンに勧めたフォン・ノイマンがそのことを確信していたのかどうかはよくわかりません。

フォン・ノイマン「ともかく誰も実際にエントロピーがなんなのかわからないので・・・この用語によってシャノンは論争で優位に立つだろう」(『ファインマン計算機科学』p.96)

「オープンソース」ということばを「バザールモデル」という開発方式を指すのに使った人が袋だたきに遭うということもありました。

「隠喩はけしからん」と言いたいわけではありません。「氷河期」と本質的な類似点があるとは思えませんが、就職難の時期を「就職氷河期」と呼ぶのは隠喩として認められます。

すでに定義が確定していることばを別の意味で使ってうまくいくのは、導入する人もしくは世間一般が、もともとの定義をある程度知っている場合だと思います。「氷河期」のなんたるかは世間一般が知っているので、「就職氷河期」ということばに文句はありません。

「ビッグバン」ということばを金融の世界で使おうとしたのが誰なのかは知りませんが、その人は、宇宙論のビッグバンについては、ほとんど何も知らなかったのではないでしょうか。「ロストジェネレーション」についてもしかり。「三位一体」はどうでしょうね(そもそもわかっている人がいるのかどうかよくわかりません)。

世間一般に知られていないことばの使い方が受け入れられるかどうかは、その人がどういう人なのかに強く依存するかもしれません(希望も込めて)。「エントロピー」の定義は世間一般には知られていませんが、このことばを情報学に導入しようとしたフォン・ノイマンはよく知っていたはずです。「オープンソース」ということばをバザールモデルを指すのに使うのは、オープンソースについてよく知っている人なら許されることのようです(否定的な文脈だとつらいかもしれません)。(むしろ「バザールモデル」という言葉を使わない方がよいのでは?

「黄金比」をうたった食品が最近出ています。

世界中を探して選りすぐったにんじん、トマト、赤パプリカを絶妙なバランスでブレンド。ゆたかな甘みと、さらっとした飲みごこちを実現しました。野菜本来の甘みを引き立てるスチームスイート製法を採用。(「やさいしぼり 黄金比ブレンド

『株式会社ナムコ』に選出いただいた6つのプリンの食感や材料のバランスを当社の開発担当者が4つの点から科学的に分析し、割り出した美味しさの傾向値に基づき、新しいプリンの試作を繰り返しました。そして、濃厚でありながらも口に入れるとさっととろける絶妙なバランスを模索し、ついに理想の比率を見つけ出したのです。(黄金比率プリン

これらの食品の命名者が、「黄金比」について何か知っていたとはとても思えません(デザイナーはいなかったか、決定権がなかったのでしょう)。もはや手遅れかもしれませんが、黄金比について確認しておきましょう。黄金比とは、下のように正方形を取り除いてできる長方形が元と相似になるような長方形の辺の比のことで、約1.62です。

参考

黄金分割は神話だった?

黄金比 調べること

少なくても彼女たちの調査が明らかにしたことは、「黄金比の四角形が美しい」と感じる感覚は、経験や年齢とは無関係に自然にかつ普遍的に人間に備わっているものではない、という事実なのです。