科学を語るとはどういうことか

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東大で物理学を研究する須藤靖さんと、京大で科学哲学を研究する伊勢田哲治さんの対談をまとめた『科学を語るとはどういうことか』は、知的トレーニングを積み重ねたはずの者同士でも、分野が違えばほとんどわかりあえないことを示す、貴重な記録である。

須藤 すでに何度も同じことを述べてきたのですが、再度明確に言うならば「明日物理法則が変わる可能性は決して否定できるものではないが、経験的にも美的感覚から言ってもその可能性は著しく低い。したがって、明日もまた今までと同じ物理法則が成立していると考えることが最も合理的である」です。

伊勢田 ヒュームが言っているのは、経験的に確率が低い、というのは帰納の正当化に帰納を使う議論になっていて単なる循環論法だし、美的感覚など何の根拠にもならないということなんですけどね。だから、結論も、「したがって合理的である」というよりも、「にもかかわらず合理的である」なんですけどね。(p.253)

全体を通して、須藤さんの、読んでいるこちらがどきっとするような、かなり感情的な科学哲学批判に、伊勢田さんがとても冷静に対応しているのが印象的だった。

伊勢田 須藤さんが一方で科学の一番基礎の部分である帰納を認めるかどうかというのが完全に趣味の問題だということも認めつつ、他方でそれを「合理的」「健全」という言い方をされていて、中立的な観点から見てもその選択が支持できるものだ、と思っていらっしゃるようなニュアンスを感じるんですよね。そのずれにちょっと「あれっ」と思わざるを得ない。でもこのずれは須藤さんだけのものではなく、科学哲学が登場する前から哲学者がこの三〇〇年間格闘してきたまさにその問題でもあるんですよね。(p.262)

「合理的」を辞書で引くと、「①論理にかなっているさま。②目的に合っていて無駄のないさま。」(大辞林)という語義が載っている。伊勢田さんの「合理的」は①だが、須藤さんの「合理的」は②なのかもしれない。

「科学哲学は鳥類学者が鳥の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」というファインマンの言葉が繰り返されるが、「科学とはどういう試みなのか」ということを、できるかぎり厳密に深く考えようとする人たちがいるのは、鳥類学者が鳥の役に立つ程度より、はるかに人類の役に立つと思う。(少なくとも私は大いに楽しませてもらった。)

科学哲学についてのバランスのとれた初学者向けの解説書として、以下の3冊が紹介されている。

この本には索引は付いていない。