幼年期の終わり


幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)解説の巽孝之さんによれば、三島由紀夫をして「私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」を言わしめる可能性を秘めたSFだが、ざっと見たところ「東大教師が新入生にすすめる100冊(2007年版)」には1冊しか入っていない。

その1冊、クラーク『幼年期の終わり』

私は「種としての人類を語れるのはSFだけ」だと思っていて、そういう意味では、「先生、そんな古典じゃなくてレムとかイーガンとかのすごいのを紹介してくださいよ!」とお願いしたいところなのだけれど、1953年の出版ということを考えると、「古典としては超一流」と言わざるを得ない。

光文社古典新訳文庫に入るのもうなずける。新訳。

幼年期の終り

書き換えられたのは導入部分の第1章のみ。コンタクトの時、人類が何をしていたかを描く章で描かれるのは、旧版では米ソの宇宙開発競争、新版では火星探査計画である。直後にやってくるオーバーロードの文明と比べればたいして違いはないわけで、わざわざ書き直す必要はなかったんじゃないかと思う。火星探査が実現したら、また書き換えなきゃならんのか?

だから、まだ読んだことのない人は、新旧どちらを選んでもいいと思う。

コンタクト直後を描く第1部「地球とオーヴァーロードたち」、人類がオーヴァーロードに統治される第2部「黄金期」は、ある種のユートピア論として読むこともできるだろう。

だか、この小説の最大の見せ場は、人類が次の段階(オーヴァーマインド)に向かう第3部「最後の世代」だ。ここはすごい。50年以上前にこれを書いたか。

ジャンは宇宙の無限の大きさをかいま見た。そこには、人類の居場所はなかった。彼を星々へと誘った夢がどれほどむなしいものだったか、いまならわかる。星々への道は、途中で二つに分かれているからだ。そしてそのいずれをたどっても、終着点で待っているものは、人間の希望や恐怖など決して考慮しようとしない。(p.396)

(その二つの道が具体的にどういうものなのかは小説を読んでもらうことにして)

われらが人類を顧みる。われわれには、この二つの道の分岐点は現れるのだろうか。そこに何らかの選択肢はあるのだろうか。種としての人類に、思いを馳せずにはいられない。

知性ある物は、運命の必然に腹を立てたりはしない(p.399)

追記:大学生が選ぶ本の大賞にアーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」(読売

「大学生に読んでほしい本」を、大学の文芸サークルに所属する学生らが選ぶ初めての試み「大学読書人大賞」の最終選考会が4日、東京・上野で開かれ、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(光文社、池田真紀子訳)が大賞に選ばれた。SFの古典的名作の新訳文庫という、既存の文学賞では選ばれないであろう作品が大賞になったことこそ、この賞のユニークさの証明である。

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