村上春樹さんの(未来の)ノーベル文学賞受賞を祝って


本を読むことが習慣になったのとちょうど同じ時期に大江健三郎さんがノーベル賞を受賞したせいか、その頃の僕は大江さんの作品をよく読み、村上春樹さんの作品はよく読まなかった。常識的なところ(長編すべてとエッセイ少々)は読んでいたが、当時の文壇が下していたような評価を僕も下したものだ。

『大江健三郎 作家自身を語る』の中で大江さんが(p.310)、

芥川賞候補になった村上春樹さんの「風の歌を聴け」を評価されなかったのはなぜでしょう。

という問いに、

私はあのしばらく前、カート・ヴォネガット(ジュニアといっていた頃)をよく読んでいたので、その口語的な言葉のくせが直接日本語に移されているのを評価できませんでした。私は、そうした表層的なものの奥の村上さんの実力を見ぬく力を持った批評家ではありませんでした。

と答えているのを読んだときも、彼独特の皮肉だとしか思わなかった。

しかし、あれは皮肉ではなかった。皮肉だとしてもそれは外に向けられてものではなかった。こんなことを言うと、二十歳の頃の僕を知っている知人からは「転向」と笑われるかもしれないが、人は変わるものだ。

転向のきっかけは、村上さんの作品を年代順に読み返したことだろう(読み返したきっかけは思い出せない。映画版『ノルウェイの森』が意外によかったからかもしれない)。初めて読む人にも読み返す人にも、村上作品は年代順に読むことを強く勧めたい。物語の構造や作家の思想の変化を感じることによって、作品をよりよく理解し楽しむことができるからだ。

ともかくそこでは、作家が読者に対してできることが、独自の文学として描かれていた。「ぼくたちに何をしてくれるのか」という問いに、真正面から独特の物語で答えられる作家はそうはいない。軽やかにしかし真剣に描かれる、あちら側とこちら側のこと、それが「何か大切なことが書かれている」と思わせるのだ。オウム事件や阪神大震災、東日本大震災を経験した、すべての日本人に向けて書ける小説家を僕は他に思いつかない。「お前たちの死せる口を通じて語ろうとわたしはやってきた」と言った詩人ネルーダが必要なときに、想像することを放棄する小説家すらいるのだ!

とはいえ、読者を惹きつけ続ける理由は他にあるような気もする。『ダンス・ダンス・ダンス』の「雪かき」のような考え方、小説だけでなくエッセイにも登場するさまざまな「習慣」は、「大切なこと」の重石のおかげで自己啓発本のように軽くなることもなく、「まっとう」に生きたいと思う読者の共感を呼んでいる。村上さんの作品を読み続けている読者にとっては、彼の作品を読むことが、「まっとう」な人生のための「習慣」の一部になっているのだろうが、読者をそのように導くことが、やろうとしてできるものなのかどうか、僕にはよくわからない。

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