グレン・グールド(1932–1982)は、1955年にゴールドベルク変奏曲でデビューしたが、1964年以降は演奏会を行わず、レコードと放送番組のみで活動した音楽家
電子メディア上での音楽の先駆者としてのグールドの発言は重要。有名になる前のマクルーハンとの対話「メディアとメッセージ」が一番興味深いか。みすず書房って高すぎだけど、大事な本も多いんだよねえ
リスナーにとっては3分間の音を生成するのに、3分以上かかるということは、情報科学的にはありうることであり(作曲にかかる時間は別にしても)、そういう音楽の完成度が他を圧倒できるようになれば、演奏会やライブというのはなくなるはず、などと思う。新アルバム『アマランタイン』のプロモーションのために来日したエンヤが、テレビで歌うのを聴きながら
そういえば、ベートーヴェン「大フーガ」ピアノ版自筆楽譜に2億3千万円なんていう話があったが(12/1)、「大フーガ」に関する発言が『グレン・グールド著作集2 パフォーマンスとメディア』に
わたしにとって、「大フーガ」はベートーヴェンが書いたもっとも偉大な作品であるばかりでなく、およそ音楽作品の中でもっとも脅威的な作品なのです(「グレン・グールド、ティム・ペイジと語る」)
甘いな。おはなしにならんよ。
今は複製時代の芸術の段階なんてとうに終わって
それをどう再生するかという問題に進んでるんだと思うよ。
そのなかでグールドやらマクルーハンやらの
60年代の理屈がどこまでアクチュアルなものでありうるか。
今グールドが生きてたら、逆にライヴをやりまくって
それを全て録音していたはずだと思う。
というわけで、今の私のお薦めはポゴレリチだな。
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ヴァレリー・アファナシエフが素晴らしいのはもはや社会常識に属する。
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「大フーガ」ピアノ版は4手用なので、グールドがライブで独奏しようとすれば、2手分は録音などに頼らなければなりません。他人は信用できないでしょうが、足で代用するわけにもいかないでしょう。ピアノ演奏の半分を録音再生で済ますのをライブと呼べるのならいいですが。2倍の速さで演奏して(できるとは思えませんが)、引き延ばして聴かせるぐらいなら録音でいいでしょうし
人間が自由に動かせるのは、せいぜい30カ所ぐらい(手足の指20本プラスアルファ。とりあえず音声は除く)。それを1秒間に30回動かせるとしても、出力のために確保できる帯域はたかがしれています。一方で、視聴覚を通じて人間に入力できる帯域はそれよりはるかに大きいでしょう。たとえば、あるマッドな作曲家の「指が30本あるピアニストのためのフーガ」をライブで独奏することはできないのです。録音されたものを鑑賞して楽しむのは容易であるにもかかわらず
私が言いたいのは、電子技術をある方向に突き詰めると、ライブでは不可能な芸術になりうるということです(おごそかに再生ボタンを押すとかでもいいなら別ですが)。グールドの著作を読むと、まずそういうことを考えずにはいられないわけです
音楽以外ではこういうことはあたりまえで、たとえば絵画の場合、鑑賞者が1分で観るからと言って、制作者が1分で描かなければならないということはないでしょう。もちろん絵画のライブ・パフォーマンスというのもあるわけですが、それは絵画芸術の限定された特殊な形態でしかありません。音楽の場合、「ライブでできる」のは「限定された特殊なもの」でしかないということが浸透していないように思います
若いアーティストがみんな「俺の音楽はライブでは不可能!」と言うべきだとも思いませんが
あるいは、脳と演奏機材を直結できるようにするとか
>電子技術をある方向に突き詰めると、ライブでは不可能な芸術になりうる
>音楽の場合、「ライブでできる」のは「限定された特殊なもの」でしかない
どうかな、みんなそれを思い知ってるんじゃないかな。
それこそエンヤは最初はライヴをやらなかったし。
例えばビートルズであっても初来日の時は『リボルバー』の頃だから
すでに原始的なロックンロールとは全く違うことをレコーディングではやっていたんだけど、
実際の公演では4人で本当に初期のロックンロールしかやってないんだよね。
ライヴでの再現が不可能であることはもちろんのこととして、
ライヴで聴かせて意味/効果があるのか(=つまりメディア選択)という
問題/意識があったんだと思う。
私が言いたいことのひとつは、
ライヴの本当の意味というのは、単に生演奏ということなのではなく、
聴衆側の演奏者へのフィードバックによるのではないかということです。
脳波を音にする機械・ミュージシャンはすでに存在してます。
でもそんなに面白くはありません。
それからハウンド・ドッグ・テイラーというギタリストがいて、
あんまりにすごいギターを弾くんでどんな手してんだと思ったら
指が6本あってさ。
誰もコピーできないんだ、普通の人間には。
http://www.slovo.co.uk/hound.jpg
6本指のギタリストというのはいい話ですね。もちろん私は知りませんでしたが。脳波というのはいわゆる「必然性のないアート」というやつで、受信機側の性能の問題・電磁波の不確定性・電磁波から脳の状態を再現することの技術的および原理的困難のために、そんなにうまくはいかないでしょうね
いずれにしても、
1. リアルタイムに生成することの非現実性
2. リアルタイムに生成することで観衆に[から]与える[られる]影響
の2つの見方があるわけですね。CDを持っていてもコンサートに行って感動する人がいるわけですから、後者も重要なのでしょう
絵を1秒分生成するのに膨大な計算が必要なCG映画だけがあるべき映画ではないのと同じ意味で、リアルタイムには生成できないような音楽だけに価値があるとは思っていません。でも、電子技術を手にしたアーティストが、それを最大限に活用しようと思ったら、ライブからは遠ざからざるを得ないように思うのです
話をグールドに戻すと、彼が意識したのは「複製」ということではなくて、「電子」ということだったと思います。もちろん、コンピュータは貧弱でしたし、下手にプログラミングなんかするよりは、自分で弾いた方がましなために「複製」の域を出なかったわけですが
生演奏でも成功できる[していた]メジャーなミュージシャンが、そういう方向に進んで、それについて書いた膨大な文章が残っているのがいいんですよ。もっとマイナーなミュージシャンとか研究者で先んじていた人はもちろんいるでしょうが(グールドがこういうことを発明したとは思ってませんし、グールドがいなくてもいずれこういうことにはなったでしょう)
2番目の見方に重きを置くならば、情報科学的な視点で音楽を映画や絵画と比較することはあまり意味がないということになるかもしれませんね。まぼろしの原稿から引用すると、
哲学者とロック・スターの違いは、後者には大衆の支持を集めることが至上命題であること。一部の偉大なロック・スターは支持だけでなく権力も望む
私が哲学的かどうかはともかく、しゃちょうは権力志向ですよ、きっと