バベルのコンピューター


滴り落ちる時計たちの波紋伝奇集文学の可能性を追求し、戦い続けている平野啓一郎の作品集『滴り落ちる時計たちの波紋』

最後の短編「バベルのコンピューター」が特に興味深い。この短編では、イゴール・オリッチの同名のメディア・アート作品「バベルのコンピューター」が紹介されている。オリッチの作品は、ボルヘスの「バベルの図書館」(『伝奇集』に収録)を再現する試みである。ただし、完成した結果が作品となるのではなく、再現過程が作品である。

オリッチは、前述のインタビュー・ヴィデオの中で、「何度やってみても、うまく『図書館』の絵を描くことができなかった」と苦笑していたが、実際に「図書館」の構造の説明は、かなり不親切ではある。(平野の注釈9)

The Library of Babel「バベルの図書館」の絵を見たい向きは『The Library of Babel』を。

平野の解説によれば、「図書館」と「コンピューター」の違いは、前者が80桁x40行x410ペイジを1単位としているのに対し、後者は80桁x40行x1ペイジを1単位としていることである。「コンピューター」には280台のディスプレイがあり、それぞれが約10秒毎に新しいペイジを生成している(この速度がとても小さいことは、江島健太郎 「平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア(前編)」で指摘されているが、ペイジをランダムに生成し、すでに生成されたペイジと同一でないことをチェックするアルゴリズムが、この実行速度を保てるとすれば、それは驚くべきことである)。

試しに1画面分だけ作ってみると、次のような感じになる(空白の代わりにアンダースコアを用いている)。

バベルのコンピューター(不誠実)(JavaScript required)

再現過程自体が作品になることには、完成品を保持するだけの資源が地球にはないからという後ろ向きな理由もある。「コンピューター」が生成するのは、29種の文字(アルファベット・カンマ・ピリオド・空白)からなる80桁x40行のペイジであるから、あり得るペイジの数は29の80×40乗、10の約4700乗である。地球にある陽子・中性子の数はおよそ10の52乗個程度であるから、たとえ1つの陽子や中性子で1ペイジを記録することができたとしても、「コンピューター」が生成するすべてのペイジを記録するには資源が足りない。

圧縮して記録することもできない。江島健太郎「平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア(後編)」で指摘されているように、「コンピューター」で生成されるペイジの大部分は圧縮不可能、つまりそのペイジを指し示すためには、ペイジ全体を提示するしかない。ユニークなタイトルを付けることももちろんできない(これは実世界ですでにできていない)。インターネット上に置いてURIを付与することはできる。ただし、そのURIはペイジと同程度の長さになってしまう。そのようなペイジにリンクを張るものはいないわけだから、平野の次の指摘は杞憂でしかない。

サイバー・スペイスでの発表は、放出された文字群が検索エンジンを混乱させるとして批判する向きもある。これに対して、オリッチは何ら反論していない。(注釈20)

ちなみに、もしペイジ全体よりも短い文字列で(もちろん文字の種類は増やさずに)、ペイジを指し示すことができるなら、パラドックスになる。ベリーのパラドックス「20文字以下で記述できない最初の自然数」(19字)である。これをもとに楽しい議論を繰り広げたのがチャイティン。(LISP式がエレガントであることを証明できないというチャイティンの証明

上述のアポリア(後編)では、

代表的なブラウザであるInternet Explorerが扱えるURLの長さは2,083文字、HTML 4.01仕様で理論上許容されている長さでも65,536文字しかないことを考えると、仮にASCIIの図形文字94文字すべてを制限なくURLとして自 由な組み合わせで使えると想定したとしても、これらの全蔵書をインターネット上に収容することは到底できない。言い換えれば、『バベルのコンピューター』 の蔵書はインターネットの全空間よりも広い、ということになる。

とあるが、現実的には「できない」という結論は正しいにしても、原理的には可能である(ナンセンスではあるが)。HTTPでURIを利用する場合についての記述がRFC 2616 (Hypertext Transfer Protocol — HTTP/1.1)にあり、そこにはこう書かれている。

The HTTP protocol does not place any a priori limit on the length of a URI.

つまり、URIに長さの制限はない(参考: Uniform Resource Identifiers)。もちろん、実装によっては長さが制限されており、IEの場合は2083文字である(では、上の制限はどこから来たのか。アポリア前後編を加筆修正したという文書、江島健太郎「白紙のコンピューター文学」新潮2004年9月号によれば、そもそも上はFranz Pauk, Traditional Nonsense, Lingua Franca Chronicle, Autumn 2003.からの引用のようだ)。

いずれにしても、生成されたペイジをすべて保存することは不可能であるから、同じペイジが2度生成されないことを保証するためには、「コンピューター」は次のような無味乾燥な形でペイジを生成しなければならない(現実的な時間内に同じペイジが生成される可能性はほとんどないのだが)。

バベルのコンピューター(不満足)(JavaScript required)

乱数を使う場合、実はもっと早く困難に遭遇する。例えば乱数生成器としてjava.util.Randomを使うと、その周期は2^48-1であるから、LCM(80*40,2^48-1)、10の約17乗のペイジを生成すると元に戻ってしまう。これは、「コンピューター」が生成すべきペイジ数(10の約4700乗)に比べると遙かに小さい。乱数生成器を変えても状況が劇的に改善するわけではない。乱数生成器を使った方がパフォーマンス・アートとしての「コンピューター」の見た目がいいのは確かだが、以上の少なくとも2つの困難(同じペイジをチェックすることの非現実性・乱数生成器の周期の問題)があるため、不誠実な作品になってしまうのである。

これで終わりではない。

「図書館」にしろ「コンピューター」にしろ、その情報単位のサイズ(ペイジ数やペイジ内の文字数)が固定(制限)されていることには問題がある。そのために、プルーストのような長大な作品は分冊にならざるを得ないのだが、広大な図書館に散在する分冊を正しい順番で読んでいくことは非現実的である(この話で現実的であろうとすることにどれだけの意味があるかは疑問だが。もちろん、続巻を指し示すことは現実的ではない)。解決はボルヘスの注釈4にあり、平野もそれを指摘している。ボルヘスは、すべての蔵書をただ1冊の終わりのない本の順序通りに並べられた分冊であると考えていたのだ。どうすればそんなことが可能になるのか。ボルヘスは述べている。

神秘主義者たちは、無我の境地に達すると円形の部屋が現われるが、そこには、四囲の壁をふとめぐりする切れ目のない背を持った、一冊の大きな本が置かれている、と主張する。

図書館を写し取ったリーマン球面の上を歩く神秘主義者の姿が目に浮かぶ。

平野自身はこの仮説を完全には受け入れていない。というのは、この仮説は「広大な図書館に、おなじ本は二冊ない」という(平野によれば)非常に重要な前提と矛盾するからである。

『バベルの図書館』が曖昧さを残しているのはこの点であり、私はこの論理的整合性を証明することができない。

神格化されている故人の誤りを指摘するには、このぐらいの慎重さが必要なのだろう。しかし、ボルヘスはこれが非常に重要な前提だとは書いていない。これは「ある天才的な司書」が「発見」した図書館の基本的な法則の一つでしかない。司書がこれを前提として推論したのであって、「図書館」がこの前提の上に成り立っているわけではない。たしかに、同じ本が二冊ないということはすべての旅行者が確認している。しかし、たとえ同じ本があったとしても、これだけ広大な図書館で、人間のような小さな存在がそれに出会うことはないだろう。ボルヘスが「反論の余地のない前提」というのも、この意味でのことだろう(「発見」の反証可能性に触れるあたり、さすがである)。

「コンピューター」の場合、われわれはそれを写し取ったリーマン球面にアクセスできるわけではない。そのため、ペイジ・サイズの制限は致命的だ。1ペイジにおさまらない情報は、分割するしかないのだが、分割された情報を結合する方法はない。オリッチはペイジ・サイズを固定するべきではなかったし、平野も分冊について考察した際に、このことをこそ指摘すべきだったのだ(有限なる「図書館」が無限という概念と交わる時を彼はとらえ損なった)。

結局のところ、「コンピューター」はどうあるべきかというと、サイズを制限せずにペイジを生成すればよい。新たに文字を加えるかどうかをランダムに決定するようなアルゴリズムを使えばよいと思うかもしれない。しかし、それではやはり先述の少なくとも2つの問題に遭遇する。特にペイジ内の文字数が少ない場合には、現実に同じペイジに出会う可能性さえ、かなりのものだろう。ランダム性を取り入れたプログラムを使うことはできないのである。以上のことを考慮すると、「バベルのコンピューター」の正しい形は次のようになる。

バベルのコンピューター(JavaScript required)

あたりまえのことだが、これは29進数で数を数えているだけである。大げさに騒いでみたところで、数を数えるという単純なプロセスを芸術作品に昇華(?)させたに過ぎない。

数を数えるだけとは言っても、数学や計算機科学においては、このアイディアのもとですばらしい考察が行われてきた。ゲーデルはすべての算術命題を数に置き換え、その上で真だが証明できない命題の存在を示した(それについての記述)。チューリングはすべてのプログラムを数に置き換え、その中から停止するものだけを選び出すことはできないことを示した。チャイティンはチューリングのアイディアを発展させ、情報量が強烈に大きい数Ωを定義した(もし円周率のようなものをたくさん計算する計算資源があるなら、Ωを少し計算してみてほしい)。

セクシーな数学

振り返って、文学は何をしているのか。初めに述べたように、平野は文学の可能性を追求する孤独な戦いをしているように見える。では、彼はこの作品で何を試みたのだろうか。ヒントはこの短編の前半にある。この短編で紹介されているのは「バベルのコンピューター」だけではない。前半ではオリッチの別の作品「アイ-ドローイング」が紹介されている。これは、全ての人間が質的に全く同一に扱われる状況を作り出すことで、人間の「脱-差異化」を試みた作品である。

「脱-差異化」を極端にすすめた「コンピューター」によって、その無意味さが露呈される。その結果から「脱-差異化」が否定されるのだろうか。

話を整理しよう。すべての言葉が同一に扱われるような状況(「脱-差異化」)を作り出す装置として、「コンピューター」が提示される。そこから生み出される言葉たちはとても情報と呼べるような代物ではない。そのことによって、極端な「脱-差異化」の無意味さが暗示される(「コンピューター」が実は数を数えているだけであることで無意味さは強調される)。

では、言葉を「脱-差異化」する試みは「コンピューター」のような形でしかあり得ないのか。現時点で明確な結論を出すことはできないが、停止するプログラムだけを生成することができなかったのと同じように、意味あるペイジだけを生成することもできないかもしれない。現代のコンピューター・サイエンスが、「数を数える」段階から抜け出していないというのはある意味で正しい。しかしこれは、まだわれわれが見ることを許されている人工知能の夢なのだ。

(つづく)

追記1 単語

辞書にある単語を組み合わせれば、意味のあるペイジだけを生成する可能性が高いという可能性は、次のような理由で退けられている。

その場合、「図書館」の蔵書は、選択された或る1つの言語に限られたものとなり、しかも、単語の総数が確定できない以上は(未来の造語は必然的に含まれないこととなる)、非常に不完全なものとならざるを得ない。

これはもちろんだが、単語を限定しないような形でしか人工知能は完成し得ないという可能性も真剣に検討されなければならない。また、ペイジに入りきらない長さの単語の可能性を考えると、やはり「コンピューター」の設計に不満を感じざるを得ない。本文で述べたように、「図書館」はこの困難を回避している。

追記2 アルゴリズム

情報を圧縮する際には、「定義」としての圧縮なのか「手続き」としての圧縮なのかを厳密に区別しなければならない。「白紙のコンピューター文学」には次のようにある。

手持ちの語彙や道具ではうまく圧縮できないもの—現代なら例えば{2,3,4,7,11,13,…}と続いていく無限の素数列—に遭遇したときに我々が見せるふるまい、すなわち一定の忠実度以内の歪みを許しながら不可逆な縮約を行う—「無限の素数列」という言葉でその一切を完全に表現できているフリをすること—という恣意的な思考停止に対する、断罪と許容の相克。

「無限の素数列」は「定義」としての圧縮である。チャイティンが登場するような文脈で、これを圧縮と呼ぶべきではない。当たり前のことだが、素数を無限に生成し続けるようなプログラムは有限の形で記述できる。そのような「手続き」としての圧縮こそ、プログラムを無限の素数列の圧縮と呼ぶべきであり、その意味では「無限の素数列」はたいして複雑なものではない(もちろん、複雑かどうかの判断は場合による。ここでは、圧縮したときの記述長が短いという意味で単純だと言っているのである)。

追記3 ペイジの人

page-man「コンピューター」のプログラムは80桁x40行の1ページに収めることができる。右がそれである

このコード(PDF)に(すべて小文字にしてから)適当な変換(sed)を施せば、バベルのコンピューターになる。この変換が恣意的すぎるという向きは、ファンダメンタリストであろう。神の言語ならいざ知らず、「コンピューター」が生み出す言語には何らかの解釈系が必要なのはあきらかである(そしてもちろんJavaは神の言語ではない)。この問題もボルヘスは処理済みである。

図書館という記号には六角形の回廊の偏在するシステムという正確な定義があるが、しかしその図書館パン、あるいはピラミッド、あるいは他のいかなるものでもあり得るし、それを定義している七つの単語はべつの意味を持っている。あなたはわたしを読んでいるが、果たして、わたしの言語を理解しているという確信があるだろうか?

神の言語を知っているならば、その言語で書かれた「コンピューター」のプログラムを是非見せてほしい。いずれにしても、「コンピューター」が出力するページをすべて含んだ1ページは存在する。任意の複数ページを1ページに圧縮できることは不可能にもかかわらずである(記述長だけを比べて圧縮と呼ぶことには実は議論の余地があるのだが、情報科学ではそれがふつうであるため、ここではそういうことにしておく)。

「図書館」についてはどうか。ボルヘスは書いている。

ある六角形のある書棚に(と人間たちは考える)、他のすべての本の鍵であり完全な要約である、一冊の本が存在していなければならない。ある司書がそれを読みとおし、神に似た存在となった。(中略)多くの者が「彼」を求めて遍歴した。(中略)その種の冒険のために、私も生涯を浪費してしまった。宇宙のある本棚に全体的な本が存在するという話は、わたしには嘘だとは思えないのだ。(中略)一瞬によって、ある存在によって、「あなたの」広大な図書館の存在は正当化されなければならないのだ。

これはどう考えればよいのだろう。他の人間は神に似ていないという信仰告白だとか、実は司書は女だったとかいうことではない。「おなじ本は二冊ない」という仮説を先に退けてしまったため、「コンピューター」のようにはいかない(実は「コンピューター」も「おなじペイジを出力することはない」と明言されているわけではない。しかし、平野の計算や「脱-差異化」との関連を考えれば、そう考えるのが妥当だろう)。

「図書館」は「コンピューター」と違い、数を数えるようにして建設することはできない。それにもかかわらず、ボルヘスは完全な要約であるような一冊が存在すると考えているのだ。これは万物理論だろうか、究極の人工知能だろうか。べつの場所にヒントがある。

本が存在するためには、その本が可能なものであれば充分なのだ。(注釈3)

ボルヘスはなぜ「書きうるものであれば充分なのだ」と書かなかったのだろうか。彼は物理的に可能なことと、知性によって可能なことを分けて考えていたのだろうか。もしそれが正しいのなら、その一冊の本を科学的に探し求める試みは、空しい結果に終わるだろう。

滴り落ちる時計たちの波紋 (文春文庫) (文庫)平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』(文春文庫, 2007)

バベルのコンピューター” への2件のコメント

  1. この文章中に”イゴール・オリッチの同名のメディア・アート作品「バベルのコンピューター」が紹介されている。”とあります。http://www.aec.at/en/index.asp
    これがそのアートフェスティバルだと思いますが、Igor OlicのComputer of Babelなるものは存在していません。この記事を書かれるときに確認されいてるのでしょうか?バベルのコンピューターにとても興味がありますが 日本語で英語でも検索にひきあたりません。情報があればご連絡いただけないでしょうか?

  2. 確認はしていません。というか、あるとは思っていないのですが
    ボルヘスも、架空の本の序文とか書いてますし、まあ、そういうものだと受け止めていました
    まあ、バベルのコンピュータ自体は、この本文中で実装してあるので、それを動かしてもらえばいいでしょう(画面は一つだけですが)
    パフォーマンス・アートとしての見た目をよくするためには、かなり不誠実にならなければなりません

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